インタビュー

コレクションでめぐる、モネの革命。

03/31 2023

光や自然をテーマにしているポーラ美術館にとって、クロード・モネは非常に重要な画家です。そのコレクションは国内最多の19作品となっており、モネの作品変遷から作品像、生涯までをひと通り追うことができます。

印象派の画家として知られるモネが、美術史においてどのような存在だったのか。ポーラ美術館学芸員の工藤弘二さん、モネの作品を研究してきたSOMPO美術館学芸員の岡坂桜子さんとの対談で、ポーラ美術館が収蔵する作品に触れながら、モネが近代絵画史上にもたらした革命を紐解きます。

 

Text: Asuka Ochi

モネの生涯を俯瞰するコレクション。

岡坂

今回改めて、ポーラ美術館が所蔵する19作品を一覧して振り返ってみて、とてもバランスの取れたラインナップであると感じました。モネは1840年に生まれて亡くなる1926年まで、86年という長い年月を生きた画家です。10代の後半から絵画の道に進み、約70年間の画歴を歩みますが、その中で変化していく様式や、モチーフに対する興味の変遷を、1870年代から晩年に至るまでのポーラ美術館のコレクションで辿ることができる。また、モネはパリやノルマンディーといった北フランスだけでなく南仏まで、いろいろな場所へ行って描いています。彼がどこへ行って何を描いたかというのも、この19点に見て取れる。これだけ旅をしながら制作を続けた画家なのだというのもわかるのではないかなと思います。

工藤

まとめて収蔵しているから、全体像を示せるというのはありますね。これまでもポーラ美術館では、「モネと画家たちの旅―フランス風景画紀行(2007年)」「モネとマティス展(2020年)」、建築家の中山英之さんに空間デザインをお願いした「モネ-光のなかに(2021年)」など、繰り返しテーマを変えてモネという画家を取り上げてきました。点数と質を兼ね備えた幅のあるコレクションのおかげで、さまざまなかたちで企画を実現することができたのです。

初期作に見る、印象派への目覚め。

工藤

1870年代、初期のモネは《貨物列車》《サン=ラザール駅の線路》などの作品で、近代生活の場面を描いています。鉄道は当時、最新の主題としてさまざまな画家が取り組んでいたものでした。《貨物列車》は、鉄道を描き始めた初期の数少ない作例ということで、海外からの借用依頼も多い貴重な作品です。

クロード・モネ 《貨物列車》 1872年 ポーラ美術館所蔵

岡坂

1872年の《貨物列車》は、「第1回印象派展」(*1)の開催前の時期に描かれていて、この時点のモネは色彩の明るさもタッチという観点でも、完全に印象派のスタイルにはなっていなかった。列車の蒸気の表現などに関心を持つ辺りには印象派の画家としての始まりを感じますが、1877年の《サン=ラザール駅の線路》と比べてみると、蒸気に対する見方というのがモネの中で変わっていることが見て取れると思います。

工藤

よく「光の画家」と呼ばれますが、光を媒介する霧や靄、あるいは水面などに対する感覚は、年を追うごとに研ぎ澄まされていきますね。そうしたものに興味を持っていたんだなとわかるのが、サン=ラザール駅での1枚なのかなと。他の画家も鉄道や駅舎を描いていますが、このような蒸気の表現をした画家は独自と言えるのかなと思います。

クロード・モネ 《サン=ラザール駅の路線》 1877年 ポーラ美術館所蔵

岡坂

最初期、ウジェーヌ・ブーダン(*2)に教えてもらった風景画からスタートした1850年代後半の油彩画は、伝統的な風景画とそれほど変わらず、合理的な空間を描いていました。その頃の光は、目の前の空間的な広がりや奥行き、あるいは個々のモチーフの立体感や遠近感を表現するためのものだったと思います。それが1860年代の《草上の昼食》(オルセー美術館、プーシキン美術館)など、サロンに向けて大作に取り組んだ時代になると、女性の衣服に木漏れ日として落ちる光を斑点として描くなど、光そのものにすごく意識的になっているのがわかる。そして1870年代以降には、霧や靄を介した光や、水面に反射する光へと関心が推移する。光をどこに見つけ、画面の中でどのように表現していくのか、光に対するモネのアプローチの仕方に大きな変化を感じます。

「積みわら」に始まる、連作の時代。

工藤

モネはパリで印象派として活躍した後、アルジャントゥイユやヴェトゥイユなどの郊外を経て、最終的に《睡蓮の池》のモデルとなったジヴェルニーにたどり着きます。このように都市から自然の中へと生活の場を移していくにつれ、描くものも変わっていきます。1877年、パリ北東のアルジャントゥイユに転居してから描いた《花咲く堤、アルジャントゥイユ》の夕景では、都市と自然を対比して表現しています。近代化から離れていった結果として、煙をあげる工場の風景も小さく描かれるようになる。その後の1880年に夕焼けを描いた《セーヌ河の日没、冬》には、自然こそを礼讃する傾向も見えてきます。モネはモチーフの周囲にある光を描きたいという言葉を残していますが、単なる強い光ではなく、微細な光の変化を描きたいと思っていた。1890年代以降の連作の時代になると、光の描きわけこそが重要となってきます。

クロード・モネ 《花咲く堤、アルジャントゥイユ》 1877年 ポーラ美術館所蔵

クロード・モネ 《セーヌ河の日没、冬》 1880年 ポーラ美術館所蔵

岡坂

1884年の《ジヴェルニーの積みわら》は連作の時代へ至る最初期の作品ですが、積みわらを描いて展覧会で発表した際にモネは、自分にとって大事なのはモチーフそれ自体ではなく、その周りにある大気など、モチーフを包むものを描くことに価値があると言っていました。そのために光が必要だったんだと思います。1880年代以降、ジヴェルニーを拠点に、フランス各地を旅しながら模索する時代の中で、工業や産業を思わせる近代的なモチーフは減り、各地の風景を描くようになりますね。そういった点からも、都会的なものよりも自然の方に惹かれ、さらには、生まれ故郷の北フランスとは違う南の各地でしか見られない風景や光を描くことにも関心があったんだなと思います。1880年代から、次の1890年代の連作の時代につながるような制作のスタイルを持ち、同じような視点で似たような眺めを複数枚描いていた。その時は連作という形式をどこまで意識していたかはわかりませんが、同じ風景を前に異なる見え方を描きわけるというモネの本質が、すでに1880年代にはあったのかなと思います。

工藤

そうですね。同じテーマを複数枚描くということ自体は他の画家もやっていますが、モネの積みわらが連作として始めてのものと言われる場合には、それらがひとつの部屋にまとめて展示された、という事情が深く関わっています。描きわけた光を一堂に会して、相違と全体を見せる。いろんな戦略を持っていた人だと思いますが、その点にこそ、モネの表現の素晴らしいところが集約していると言えると思います。

クロード・モネ 《ジヴェルニーの積みわら》 1884年 ポーラ美術館所蔵

岡坂

私は個人的には、数ある連作の中で、一番はじめの積みわらの段階では、モネは最初から連作として描こうとしていなかったんじゃないかなと思っているんです。気がついたらあれだけの数になっていて、ひとかたまりの連作になったという気がするんですね。というのも個々の作品を見てみると、積みわらが1つの場合も2つの場合もあってバラバラですし、あまり一同に並べることを意識していなかったのかなと。それに比べて《ルーアン大聖堂》やポプラ並木の連作は、キャンバスのサイズも構図もほとんど統一され、システマティックに描かれていて、色彩だけを変えているから、並んだ時にすごく美しい。ただ、モネの光に対する感覚や反応が生々しく出ているのは、積みわらの方なのかなと。そういう意味でも、私は積みわらが連作の中でも好きなんですけれども。モネの中でも時期や主題に応じて、連作の描き方も変わっているんだろうなと思いました。

工藤

確かに積みわらは、わらの数や大きさも全然違うので、どこまで自覚的に描いていたのかはわからないという気もしますね。さまざまな主題を取り上げて光を描きわけた連作の時代の作品として、ポーラ美術館には連作のポプラ並木こそないものの、《ジヴェルニーの積みわら》の積みわらの背後には、ジヴェルニーにあったポプラ並木も描かれていますし、《ルーアン大聖堂》の他にも、国会議事堂を描いたロンドンのシリーズである《国会議事堂、バラ色のシンフォニー》や、水の街ヴェネツィアを描いた《サルーテ運河》などがあり、コレクションではシリーズを満遍なくフォローしています。

クロード・モネ 《ルーアン大聖堂》 1892年

モネの「睡蓮」が完成するまで。

工藤

最も有名な睡蓮のシリーズには、最終的に水面にクローズアップしていくというプロセスがあります。描き続けている中で、よりシンプルな構図を目指していくわけです。モネのジヴェルニーの庭に掛かる太鼓橋を描いた風景画《睡蓮の池》は、水面を描く前のクローズアップされていない睡蓮の池が描かれていますが、これは国内ではポーラ美術館にしかありません。橋の背後にはしだれ柳も描いてあって、睡蓮の池を一歩引いて捉えた外観がわかる1枚です。

クロード・モネ 《睡蓮の池》 1899年 ポーラ美術館所蔵

岡坂

モネが30年弱取り組んでいた睡蓮の連作には膨大な数があって、そのほとんど全てがジヴェルニーの「水の庭」を描いています。200点近くの睡蓮の作品を順に追って見ていくと、最初は太鼓橋が描かれた《睡蓮の池》のように、画家が池の淵にいて目の前に広がる睡蓮の池を眺めている様子を感じさせる奥行きのある空間が描かれています。しかし、年代が経つにつれて、視点が水面に集中していき、画面の平面性や装飾性が強調されていく。そして、ポーラ美術館のもうひとつの作品《睡蓮》のように、画面いっぱいに池の水面を描いた作品へと移っていきます。

 

年代を経るごとに、正方形に近いキャンバスが横に広がって巨大化し、睡蓮の固まりも数が減り、ほとんど水面とそこに映る上空の雲やしだれ柳のシルエットだけに要素が削ぎ落とされていくんですね。単純に、描かれるモチーフの種類は数が減ってシンプルになりますが、反対に、空間の構造は重層的になります。水面とそこに映り込む上空の世界、それらに加えて色彩の微妙なグラデーションによって水面下の世界までもが同時に重ね合わされている。さらに水面を描いた作品が壁に掛けられると、私たちは画面が物理的に垂直に立っている状態でそれを見ることになる。ものすごく複雑で不思議な空間を表現しているなと感じます。

クロード・モネ 《睡蓮》 1907年 ポーラ美術館所蔵

工藤

空や水中、水面の光の世界など、限られた画面の中で世界が広がっていく情景を描くという、かなり複雑なことを実はやっていますね。この睡蓮の連作がモネの到達地点なのかなと思います。彼自身が「水の風景」と表現していますが、これはモネが発明した絵画の形式と言っていいのではないでしょうか。

岡坂

晩年の睡蓮は、「装飾」というキーワードと共に語られることも多いと思います。風景画というとキャンバスの中に三次元空間を再現するという意識がありますが、もはやそういうところから離れていて、合理的な空間を作ろうとは思っていない。平面的であり、奥行きがあるようにも見えて、不思議ですよね。

モネの功績を支えた交友関係。

岡坂

連作から晩年の睡蓮までの作品を考える時、フランスの首相も務めた政治家ジョルジュ・クレマンソー(*3)や美術評論家のギュスターヴ・ジェフロワ(*4)といった人々と、モネとの交友関係を一緒に考えることも重要だと思います。《ルーアン大聖堂》で言えば、モネが1895年の個展で連作30点中20点ほどを展示した際に、クレマンソーは「大聖堂の革命」というタイトルで批評文を発表します。そこでクレマンソーは、モネの光の表現への称賛とともに、会場では連作として見ることができるが、展覧会が終われば、あるいは個々の作品に買い手が付けば、連作が散逸してしまうという危機感を述べています。それを解決するために、フランス国家が作品を買い上げて、美術館に恒久的な展示の場所を作り、連作という形式を壊さないようにしなければならないと言っているんですね。政治家としてそういう記事を書くことで、複雑な政治的意味を込めているのかもしれませんが、一方で、モネの連作という形式の特異な性格をクレマンソーはよく理解していたんだなと思います。

 

パリのオランジュリー美術館に所蔵されている最晩年の《睡蓮大装飾画》(*5)に至るまでの道のりを考えても、クレマンソーが指摘した恒久的な作品展示の場所を確保するという課題は、モネにとって大切なことだったのではないかなと思います。晩年にどんどん画面が大きくなったことは、モネ個人の内的なモチベーションによる作品の進化でもありますが、スケールの大きな連作を展示するには広い空間が必要で、オランジュリーもクレマンソーの力がないと実現しなかったプロジェクトなので、周囲にいた人の動きや作品が成立するプロセスもあわせて考えると、モネの作品をより一層深く理解できるのではないかなと思います。

工藤

絵画の価値は、当然それを評価する人たちがいないと上がりません。印象派は今でこそ美術の殿堂と思われていますが、当時は全くそんなこともなく、今でいう現代美術の作家たちと同じような境遇にいました。モネの絵画も酷評されたり、厳しい茨の道を歩んだりしながら、印象派を代表する画家として評価を得て、最終的には、友人であり当時の首相だったクレマンソーに打診して《睡蓮》を国家に寄贈するかたちとなります。公的な社会に認められる道筋で理解のある友人に恵まれて、その功績を成し遂げたと言えますね。

ポーラ美術館ならではのモネの楽しみ方。

クロード・モネ 《サルーテ運河》 1908年 ポーラ美術館所蔵

岡坂

今回、ポーラ美術館に収蔵されている19点の作品を振り返って、モネの関心の幅広さに驚くとともに、興味を抱いた自然現象や光を、どうやって絵具に変換していくかということを追求した画家であり、それが時期を追うごとに変化していくことに、改めてこの画家の表現語彙の豊かさを感じました。最終的に睡蓮に至るまで描き続けた画家としてのエネルギーや執念にも、偉大さを感じます。もうすぐ没後100年になりますが、他のアーティストの作品と比較するなど、いくらでも考察が可能な作家であると思います。

工藤

モネの作品を語るテーマというのは、今回話したこと以外にもまだまだありますよね。ポーラ美術館でモネを見て、それを探してみるというのも面白いのではないでしょうか。箱根の豊かな自然と光に触れた後に見ると、作品の理解がより深まるというのもあるかもしれません。ポーラ美術館を起点として、連作を含めて全国に散らばるモネの作品を見に行くという楽しみ方もあると思います。

工藤弘二(くどう・こうじ)

ポーラ美術館学芸員。担当した展覧会に「モネとマティス―もうひとつの楽園」(2020年/ポーラ美術館)など。

岡坂桜子(おかさか・さくらこ)

SOMPO美術館学芸員。専門は19・20世紀フランスの絵画、タピスリー。SOMPO美術館では「シダネルとマルタン」展(2022年)などを担当。

*1 第1回印象派展・・・1874年に新進気鋭の芸術家たちによって、パリで開催された最初のグループ展。主な出品者に、クロード・モネ、エドガー・ドガ、ピエール・オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロなど。

 

*2 ウジェーヌ・ブーダン・・・戸外での風景画制作の先駆者として印象派に影響を与えたフランスの画家。1857年にモネと出会い、モネに屋外で絵を描くことを教える。第1回印象派展にも参加。

 

*3 ジョルジュ・クレマンソー・・・フランスの政治家、ジャーナリスト、元首相。1860年代にモネと出会い、評価されていなかった時期から印象派を支えた。1918年、第一次世界大戦の休戦協定締結を記念し、モネは《睡蓮》の大作を国家に寄贈することを約束、クレマンソーはそれを展示するためにオランジュリー美術館を整備した。

 

*4 ギュスターヴ・ジェフロワ・・・フランスのジャーナリスト、美術評論家、文筆家。1880年にジョルジュ・クレマンソーが主宰する「ラ・ジュスティス」紙に参加。印象派の全容を論じた。モネの伝記『クロード・モネ―印象派の歩み』の著者でもある。

 

*5 オランジュリー美術館の《睡蓮大装飾画》・・・《睡蓮大装飾画》のために整備されたオランジュリー美術館には、楕円形の2つの展示室に8点の睡蓮の連作が、360度取り囲むように展示されている。各作品は高さ約2メートル、全長91メートルと巨大。

ポーラ美術館に収蔵されているモネの作品一覧はこちら