わたしはリヒターをこう考えた。
決して一概には語れず、写真、絵画、戦争、資本主義など、様々な観点から論じられるゲルハルト・リヒター。多様な作風が故に難解とも捉えられ、多様な見解を許すアーティストについて、作品を愛する3人に独自のリヒター論を展開してもらいました。それぞれの目にリヒターの世界はどう写っているでしょうか。
気配、レイヤーの奥に/キュレーター・児島やよい
初めて見たリヒターの作品のビジュアルは、フォトペインティングのシリーズの1作だった。ピントが少しぼけた写真のように精緻に描かれた、後ろを振り返る若い女性の姿。顔はわからない。それでもゆるく編み込まれた濃いめのブロンドの髪の繊細で柔らかな光沢、白地に赤い花柄の編み込みセーターの質感から、彼女の実在が確かに感じ取れるような気がして、強く印象に残った。1988年作の《Betty》である。作家の娘が11歳の時に撮影した写真を元に、その11年後に描かれたという。
白と赤の組み合わせのセーターを見るとこの絵を連想するほどに私のメモリーにインプットされ、彼女が着ているのは編み込みセーターだと思い込んでいた。しかしある時、パソコンで画像を拡大して見ると、どうやらニットではなくプリントされたスウェット生地のパーカーのようだ。さらに、振り返った彼女が見ている(と思われる)のはグレーの壁ではなく、リヒターの作品〈グレイ・ペインティング〉だという重要なことを、かなり後から知ったのである。
「見ているつもりで見えていないこと」が、あまりにも多い。表層に魅了されてしまうと、その奥のレイヤーに気づけない。意識しているつもりでも。アートに関わる仕事をしているのに、と己を恥じるばかりだ。そしてアートは、どこまでいっても「見ているつもりで見えていないこと」をさまざまな角度から照らし出すので「見て、わかったつもり」で安心できはしない。
リヒターの作品に一貫しているのは「見えていないこと」を見ようとしている、と観る人に感じさせることなのではないか。フォトペインティングに描かれている家族写真しかり、記録写真しかり、そこに写っているモーメントの、奥にあるものの気配はするが、はっきりとは見えない。長さ10メートルの《ストリップ》は、全体とディテールを一度に見ることは不可能だ。ガラスや鏡面のようなアクリルの作品には否応なく周囲の人や物、何より観ている本人が映り込み、干渉する。インスタレーション《8枚のガラス》に至っては、どこまでが作品か、何を見ているのかさえ判然としなくなる。
《アブストラクト・ペインティング》の前では、色の洪水、絵の具の圧力に陶然とする。画面に絵の具とともに押し付け擦り付けられているのは、作家が力を込めてスキージを使った物理的な重さと運動の時間でもある。コントロールできない領域で生まれる不協和音のような美、しかもその奥のレイヤーには、もはや知り得ない、見えないフォトペインティングが存在しているのだ。《ビルケナウ》の衝撃はその極致だ。
リヒターの作品を観るとき、絵画でなければ生まれないもの、絵でなければ見えないことを見ている、という高揚感と、深淵を覗き込む不安とが同時にやって来る。それは、世界は未見の、未知のもので満ちている、と何度でも体感できる、幸福な時間でもある。
児島やよい(こじま・やよい)
キュレーターとして、2002年「手の好き間 須田悦弘・中村哲也」展、2003年「杉本博司 歴史の歴史」展のキュレーション(メゾンエルメス)、2004年「草間彌生 クサマトリックス」企画協力(森美術館)など、多くの展覧会を手がける。2016年〜2018年、十和田市現代美術館副館長を務め、「村上隆のスーパーフラット陶芸展」「森北伸展」を担当。また、2008年以降の国内外での「高橋コレクション」展共同キュレーションを担当し、現在、高橋龍太郎コレクションのプロジェクト・アドバイザーを務める。ライターとしても活動。共著に『クリエイティヴの課外授業 わたしを変える” アートとファッション”』(PARCO 出版)。杉野服飾大学非常勤講師。
傷跡と境界線/詩人・菅原 敏
雨あられのように飛び交う銃弾はすべて絵の具で、キャンバスをかすめ、削り、飛び散って、そこに残った荒々しい痕跡はどこか傷跡のようにも見えた。目でなぞれば、少しの痛み。
もうずいぶんと昔、私が初めてリヒターの抽象画に出会った時のこと。
当時は彼の作品背景や生い立ちなど、何も知らずにぼんやりと絵を眺めていた。
後に知った、彼が東ドイツから西側に移ってきたこと、戦前、戦後をくぐり抜けてきたこと、大切な人を亡くしてきたこと。
それらはどのように作品に影響を与えてきたのだろう。
写真に落とされた絵の具、ガラスの重なりに揺れる虚構と現実、ピントの合わない写真のような絵画。
様々な手法を用いて創作を行なっているが、彼は常に輪郭、境界線にフォーカスしていたように思う。
決して描くことのできない何かに近づくために、輪郭を描き/ぼかし/拡張し/消してきた。
何かが欠損することで見えてくるもの。描かないことで見えてくるもの。
「本当のイメージなど描くことができるはずもない。だが、それでも探さなくてはならない」
そんな覚悟のようなものが、時代とともに彼をあらゆる作風へと導いたのではないだろうか。
現在91歳となるリヒター。近年のドローイングは、鉛筆で描かれたシンプルで淡いモノクロームの作品たちだった。
雨あられの色彩の銃弾をくぐり抜けて、彼が行き着いた静かな世界。
あきらめることのないイメージへの眼差し。
先日、久しぶりに仕事でヨーロッパに向かった。成田からの直行便だったのだがロシア上空を飛べないため、太平洋から北米、グリーンランド上空を抜け、通常運行時よりも時間をかけてパリに到着した。
ホテルのテレビでも時折ニュースを見た。いまだ終わりの見えない戦況を伝える中で、ベッドに横たわって、すべての銃弾や砲撃が絵の具だったならと想像してみる。
極彩色に染まったアパートメント、赤青黄の病院に発電所、飛行場は色のプールになって、鮮やかな翼を持った飛行機たちが飛ぶ。
国が国をそれぞれのキャンバスにして描く二枚の絵について。
第二次大戦の傷痕を引き受けて創作を続けてきた彼はいま、どんな思いでこの戦争を見ているのだろうか。
小さなホテル、水色の壁にかけられたテレビの画面に、私はかつて見たリヒターの抽象画を重ねていた。
菅原 敏(すがわら・びん)
2011年、アメリカの出版社PRE/POSTより詩集『裸でベランダ/ウサギと女たち』をリリース。 以降、執筆活動を軸にラジオでの朗読や歌詞提供、欧米やロシアでの海外公演など幅広く詩を表現。近著に『かのひと 超訳世界恋愛詩集』(東京新聞)、燃やすとレモンの香る詩集『果実は空に投げ たくさんの星をつくること』(mitosaya)、『季節を脱いで ふたりは潜る』(雷鳥社)。東京藝術大学 非常勤講師
リヒターの絵を見る/デザイナー・須山悠里
「同じ人が描いた絵とは思えない」。
展覧会を訪れた知人が言った。それほどに多様で、かつ継続された膨大な仕事に、圧倒されての言葉だ。
これだけの大家にも関わらず、不思議なことに、私自身、これまでゲルハルト・リヒターの画業を網羅した展覧会を見たことがなく、国内外の美術館のコレクションで幾つかの作品を見たことがあるのと、あとは評伝や作品集を通しての印象を持っているだけだった。
東京都近代美術館と豊田市美術館で開催された「ゲルハルト・リヒター展」の図録のデザインをするにあたり、担当学芸員の提案で、出品作品を制作年順に構成することになった(今回の出品作は、長らくリヒター自身が手元に置き、ゲルハルト・リヒター財団の所蔵となった作品群を中心としており、東京都近代美術館の会場構成には、リヒター本人が関わり、豊田市美術館では、制作年順が基本の構成となっている。)
図録であっても、作品集であっても、一冊の本には、その本だけが持つ時間軸があって、物質としての紙やインク、それらのサイズや重さ、そこに現れる図像同士の関係、そうした要素が複層的に響き合いながら、頁を捲らせ、世界を形づくっていく。
初めて見るイメージを眺めながら、論考やエッセイを補助線に、本のレイアウトを進め、一冊の本の様相を呈しはじめたあたりで、「果たしてこれは、一直線の時間なのだろうか」と思った。
リヒターの画業は、一つの作品シリーズを終えてから、次のシリーズに移行するわけではないから、制作年順をとった図録の構成において、〈フォト・ペインティング〉、〈アブストラクト・ペインティング〉、〈オイル・オン・フォト〉といった作品群が入れ子状にはなるのだが、理由はそうしたことではなく、一つ一つの作品それ自体がすべて、どこかで(作品の背景というより、物理的に画布の裏で)有機的に繋がっているように感じられてきた。
最終的に、本書の中で最新作にあたる、モノクロームの(実際には微かな色味を湛えた)〈ドローイング〉のシリーズを、冒頭に原寸大で掲載することにした。それは、最新作が、同じく色味を持たない初期の〈フォト・ペインティング〉、そして〈グレイ・ペインティング〉に円環していくようにも思えたからだったが(なお、《ビルケナウ》(2014年)が印刷されたカバーを剥ぎ取ると、《グレイ(樹皮)》(1973年)の表紙が現れるつくりになっているのだが、これは本書に掲載された田中純さんによる論考「樹皮としての絵画──《ビルケナウ》とジョルジュ・ディディ=ユベルマン」に着想を得た)、10/15から始まった豊田市美術館の展示では、さらに新しい、カラフルなドローイング(のフォトエディション/2022年)が出品されていた。
時間は、世界は、どこまでも複雑に続いていく。
ゲルハルト・リヒターの描いた全ての絵を、重ね合わせ、折り畳んだとしたら、そこには何が立ち現れるだろうか。
改めて、本を捲る。「様々な人が描いた」とも、「同じ人が描いた」とも思わない。
私は、リヒターの絵を見ている。私は、世界を見ている。
須山悠里(すやま・ゆうり)
Photograph : Anders Edström
1983年生まれ。近年の主な仕事に、エレン・フライス『エレンの日記』(アダチプレス)、鈴木理策『知覚の感光板』(赤々舎)、潮田登久子『マイハズバンド』(torch press)、『ゲルハルト・リヒター』(青幻舎)、『李禹煥』(平凡社)の装幀。「マーク・マンダース―マーク・マンダースの不在」(東京都現代美術館)、「東日本大震災10年 あかし testaments」(青森県立美術館)、「川内倫子:M/E 球体の上 無限の連なり」(オペラシティアートギャラリー)、「野口里佳 不思議な力」(東京都写真美術館)、「ゲルハルト・リヒター」(豊田市美術館)のデザインなど。
ポーラ美術館の2つのコレクション
近年、ポーラ美術館は、従来の近代美術を中心とするコレクション加えて、近代と現代を結ぶ作品を収集しています。新収蔵作品の中には、リヒターの1960年代半ばのフォト・ペインティング《グレイ・ハウス》と1980年代後半の《抽象絵画(649-2)》が含まれています。
《グレイ・ハウス》は、作品制作のために作家自身が集めた写真や新聞の切抜き、メモやドローイングなど、日々増殖するイメージの集積からなる作品《アトラス》に含まれた建物の小さな写真をもとに、筆でぼかして描いたモノクロームの作品。
《抽象絵画(649-2)》は、画面に重ねた絵具をスキージで展ばすことを繰り返して複雑な色彩の表情を生み出すリヒター独自の技法が用いられた作品ですが、部分的に筆の使用が認められることから、1960年代のフォト・ペインティングに連なる作家の恣意的な手の動きや身体性も感じられる作品です。
これらのリヒターの作品は、ポーラ美術館の西洋絵画コレクションの印象派から現代絵画までの光や色彩の表現の展開の中で重要な位置を占めており、従来の近代絵画の見え方を変えてしまう魅力のある作品です。2点の作品は現在、常設展中の特集展示「ゲルハルト・リヒター」でご覧いただけます。