“水”がつなぐ、私と、僕と、ロニ・ホーンと。
写真、彫刻、ドローイングなど、多岐にわたる制作をするアメリカ人現代アーティスト、ロニ・ホーン。アイスランドに滞在し温泉に入る女性の変化を記録したポートレイトや、イギリスのテムズ河の水面を切り取った写真、水を湛えたガラスの彫刻など、彼女の作品の多くは「水」がキーワードになっています。それら作品群を一挙にまとめた、彼女の国内初の大規模個展「ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」展が、2022年3月30日まで開催中です。本展を訪れた、写真家の石塚元太良さん、小説家の小林エリカさん、アーティストの下道基行さんの3人に、それぞれが感じたことを綴ってもらいました。自然、孤独、言葉……と様々な要素が掬い上げられ、ここからまた、新たな物語が紡がれていきますーー。
イラスト:ナガノチサト
編集協力:伊藤総研株式会社+ライトパブリシティ
自分自身の“The Water”/写真家・石塚元太良
自分自身の“The Water”/写真家・石塚元太良
(©Mina Soma)
いしづか・げんたろう/1977年生まれ。写真家。10代の頃より世界各地を旅し、アフリカとアジアを縦断し撮影した『Worldwidewonderful』でエプソンカラーイメージングコンテスト大賞受賞。ほか受賞歴にビジュアルアーツフォトアワード、日本写真家協会新人賞など。2006年に発表した、アラスカのパイプラインを撮影したシリーズ『Pipeline Alaska』が高い評価を受け、2011年度文化庁在外芸術家派遣に選出。パイプラインや氷河、ゴールドラッシュなど独自の視点でランドスケープを提示し、ドキュメンタリーとアートの境界を横断する制作スタイルは「コンセプチュアル・ドキュメンタリー」とも評される。2019年には、ポーラ美術館で開催された『シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート』に参加。
はじめに正直に告白すると、「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」を拝見するまで、僕は、ロニ・ホーンというアーティストのことをよく知らなかった。
もちろんその名前は、知っていた。けれどそれは、Steidl社から出版されている数冊の作品集、『Island』や『aka』『bird』などを知っているレベルで、ただ単純にフォト・コンセプチュアリズム(*1)の流れを汲む写真家くらいの認識だった。またアイスランドのレイキャビックのレジデンスで滞在制作をしていた頃、たまたま同じレイキャビックで撮影された『Her Her Her, & Her』という写真集(ミュージシャンのビョークの撮影が行われて有名になった温泉スパで撮影されたもの)を現地で見たときも、当時の僕はその良さが、正直うまく理解できなかった記憶がある。
けれど、今回ロニー・ホーンの活動の全容を知りうるような展示を拝見できて、その認識は気持ちよく覆された。(繰り返すようですが、元々はただの僕の勉強不足なんです)
一つ一つの作品の詳細は文字の制限もあるのでここでは割愛するが、刷新された認識をあえて、言語化するならば、彼女の作品を一貫して流れているものは、詩であり、またその独自のビジュアライズの方法論の試行錯誤である。インスタレーションの全体を思い返してみると、括弧付きの「クオリティー」という言葉が自然と浮かんでくる。
このとき括弧付きの「クオリティー」とは「品質」としか訳せないような意味合いのものでは決してなく、それは、例えば『禅とオートバイ修理技術』(ロバート・M・パーシグ著)(*2)の主人公パイドロスが人生をかけて追い求めていた類のもの。実りある人生の根幹に流れるものや、瑞々しい世界の成り立ちそのものに関わるようなもので、古代ギリシャ人がたとえば「イデア」といい、老子が「タオ」と言ったような、本来的に説明不可能で、多分に哲学的で、美学の論理みたいなものさえ超越しているような「クオリティー」のことである。
その上で最後にもう一度、エントランスに掲示された展覧会タイトル「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」とその原文タイトルテキストを注視してみる。”When You See Your Reflection in Water, Do you Recognize the Water in You?”——英語原文には「Reflection」という言葉と「Water」の前に冠詞「the」があることに気づく。
「水の中にあなたを『見る』とき、あなたの中に『水』を感じる?」
字義通りに捉えて、水の中に自分自身を見て、自分の中の水に気づくだろうか?という問いは少し返答に困ってしまう。けれど、「Reflection」という言葉と「Water」の前の「the」に注意して、「自分自身のたゆたう投影を水の表面に見たときに、あなたはあなた自身の『the Water』に気づきませんか?」という問いとして再考してみたらどうだろう。
このとき自分自身の「the Water」とはなんだろう。変幻自在なアナロジーの権化である「水」は、つまり僕が先ほど説明した彼女のインスタレーションの「クオリティー」のそのものとして考えることはできないだろうか。
揺れ続け変化しづける投影としての自分は、この一瞬たりともとどまることのない現実世界で「the Water」を持って生きているか、否か。ロニ・ホーンのインスタレーションの中には、かようにも本当に多くの示唆が含まれているような気がする。
川の、グラスの中の、一滴の、水。/作家・小林エリカ
小林エリカ ERIKA KOBAYASHI
(Photo by Mie Morimoto)
こばやし・えりか/1978年生まれ。作家、マンガ家。ドローイングやインスタレーションを制作するなど幅広く活躍する。著書に『トリニティ、トリニティ、トリニティ』、第27回三島由紀夫賞候補・第151回芥川龍之介賞候補となった『マダム・キュリーと朝食を』、アンネ・フランクと実父の日記をモチーフにした『親愛なるキティーたちへ』など多数。近著に『最後の挨拶 His Last Bow』、初の絵本となる『わたしは しなない おんなのこ』。「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」(国立新美術館)、「六本木クロッシング2016:僕の声、あなたの声」(森美術館)など多くの展覧会に参加している。
箱根の山の木々が赤や黄に色づきはじめた日曜日の午後、ポーラ美術館を訪れた。
ロニ・ホーンの展覧会を観るためである。
彼女の作品のことを私がはじめて知ったのは、2005年の夏。
『流行通信』というファッション誌の企画でアイスランドを旅することになり、いろいろな本を見ていくなかで、確か私は偶然に『You are the Weather』(*3)の写真集を手にしたのだったと思う。
ページを繰ると、水に浸かる女性の顔が現れる。そのかすかに変化する表情が並ぶ。
私はそこに深く共感し、目を見開かされ、彼女の作品を懸命に探した。
彼女が制作したアーティストブックを繰りながら、彼女の世界に夢中になった。
そして遠くの場所に暮らす彼女のことを、勝手に親しい存在に感じて、彼女の作品に勇気づけられた。
だから今回、ポーラ美術館で開催される彼女の大規模な個展が、日本でははじめてのものだと知ったとき、少し不思議な気持ちがした。
もう長いことずっと、彼女の作品は自分のそばにあったような気がしていたから。
展覧会場の入り口には、シルバーのスタンドに立てられた幾つかの写真。
その向こうに、シルバーの文字で刻まれたタイトル「When You See Your Reflection in Water, Do You Recognize the Water in You?」。
その前に立ちながら、私は息を呑む。
はじまりからして、なんてささやかで壮大な展示の見せ方なんだろう。
展示室を進んでゆくにつれて、それは確信にかわる。
著名な《あなたは天気 パート2》(*4)の作品群も、一点一点の写真はとても小さい。ただそれが独特のリズムを刻みながら展示室をぐるりと取り囲むとき、私はそこに禅寺の石庭を見ているような気持ちになる。余白に、見立てられた水の向こうに、無限の宇宙が広がるように。
一見巨大に見えるコラージュやドローイングでさえ、そこに目を凝らすと、そこにはごく小さな文字や、細く切り取られた紙でできていることに気づく。
野外の「森の散歩道」に置かれたガラスの彫刻作品《鳥葬》も、その大きさにそぐわずひっそりとしている。かすかに雨水を湛えた天面には落ち葉が舞い降りていて、その向こうを覗き込むと、ガラスが水のようにそこにある。
彫刻というものですら、その強さや堅牢さからは程遠い。
彼女の徹底したその姿勢は、どこまでも真摯で、優しい。
インスタレーションを発表しながらも、アーティストブックをつくり続ける姿勢にも、作品タイトルにつけられた言葉ひとつひとつ(たとえば「無題(「…最新の新聞記事より:地方に暮らす女性が病院で手術を受け男性になった。彼女の名前は『ヴェロニカ』であったが、手術後に彼女、いや彼は『ジュリアス・シーザー』という名前を選んだ。」とか)にも、それがくっきりと現れている。
その感触は、エミリ・ディキンスン(*5)の詩を読むときに(彼女自身も作品にしている!)、私が強く感じるものでもある。
大きなものや、絶対的な権力から離れた場所にある、ひとつひとつの小さな存在。
その生を、死を、決して忘れない姿勢。それをどこまでも見ようと、言葉に、作品にしようとする、信念。
だからこそ、私は彼女たちの作品を、どこまでも信頼できる。
それらにふれるたび、この小さな私という存在が、ここにいてもいいんだ、と安堵する。
私は興奮冷めやらぬまま、展示会場を後にする。
同時開催の「モネ—光のなかに」(会場構成:中山英之)、ニコ・ミューリーによる選曲のプレイリスト(素晴らしい!)、「水の風景」が、私の心の中のさざなみを、より大きな波に変えてゆく。
箱根に一泊することにして、湖のそばにある宿に泊まった。
夜温泉の露天風呂に浸かる。
ぱらぱらと雨が降っていた。
私は身体を水に包まれ、額に水を感じながら、ひたすら水のことを考える。
テムズ川の水と、北極の氷山と、私のグラスの中の水、雨水の一滴。彼女が写真に写し、言葉にした水。わけることはできない水。
私は今、どこまでも遠くのものとも、どこまでも近くのものとも、繋がることができるような気持ちになる。
《Saying Water》(*6)という彼女がテキストを朗読する作品のなかで彼女は言う。
Thinking about water is thinking about the future, or just their future, my future, yours.
“水について考えることは、その未来について考えること、あるいはただ未来を。わたしの未来、あなたの未来。”
ほんの少し変化する“連続”に見たもの。/アーティスト・下道基行
下道基行 MOTOYUKI SHITAMICHI
(©Satoko IMAZU)
したみち・もとゆき/1978年生まれ。アーティスト。武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。大学在学時より国内外を旅し、日常から忘却されている物事や風景を視覚化する写真作品やインスタレーションを制作。代表作に、日本各地に残る軍事施設跡を調査・撮影した「戦争のかたち」(2001〜2005)、日本の植民地時代の鳥居をテーマにした「torii」(2006〜2012)、津波によって陸に流れついた岩を八重山・宮古諸島で写した「津波石」(2015〜)などのシリーズがある。2019年「第58回ヴェネチア・ビエンナーレ」日本館代表作家に選出されたことでも話題を呼んだ。近年の主な展覧会に、個展「漂泊之碑」(大原美術館/有隣荘、岡山)、「復興を支える地域の文化ー3.11から10年」(国立民族学博物館、大阪)、「日常のあわい」(金沢21世紀美術館)、瀬戸内『鍰造景』資料館」(宮浦ギャラリー六区、香川)など多数。
日曜日の午後、雨上がりの箱根の森には霧が出ていた。
箱根の温泉地を越え、静かな森の中に立つ美術館の木製の扉を開いた。
ロニの作品をまとめて見るのは初めてだった。
展示室に入ると、巨大なガラスで作られた円筒状の彫刻には長い詩的なタイトルが付けられ、次の部屋では詩の引用がシンプルな角棒状のオブジェになっている。断片的な詩と研ぎ澄まされた立体物のバランスは、見る人に簡単な理解を促さない突き放す感覚がある。
展覧会の前情報として、ロニはアイスランドを旅して自然と向き合い制作していると勝手にイメージしていたが、実際に展示空間を歩き回ってみると、この作家が向き合っているのは大きな自然ではなく、小さな自分自身なのだと、ふと感じた。アイスランドの自然が持つ静けさと向き合うことで、自らの奥底から生まれてくる詩に耳を傾け続けている。それは文字ではなく物体としての詩なのではないか。
個展というのは、その作家が追い続ける興味や生き様がジワリとにじみ出るものであり、それを見るのは幸福な体験だ。
《あなたは天気 パート2》という作品に足を止めた。空間自体が時間的な感覚を持っていた。部屋をぐるりと囲むように、A4サイズ程度の写真が100点ほど、目線よりやや下の高さに掛けられている。まるで、秒針が刻むかのようなリズムで。
全てに同じ女性の顔が写っている。彼女はこちら/カメラを直視している。構図も全てほぼ同じ、証明写真のように肩から上で切り取られ、ちょうど鑑賞者と見つめ合うようなかたちになる。
写り込む背景を注意深く見ると、女性はアイスランドの温泉に浸かっているらしいことがわかる。首まで浸かり、頬や額には汗がにじむ。同じ日に撮られた6点程度が、連続して並べられていてる。それぞれの連続写真の間には、かすかな時間が発生している。数十秒から数分程度だろうか。バラバラな別の日にも撮影された17種類の連続写真で構成されている。写るのは、ほんの少し変化する女性の顔と風景だけ。笑顔などの特徴的な表現は周到に避けられている。見知らぬ人の微妙な表情の変化と淡々と向き合いながら空間を一周すると、いつの間にか始めの写真にたどり着き、また空間を一周してしまう。
彼女は、ある日は少女のようにも、そして別の日には老人のようにも見える。あるいはちょっと嬉しそうだったり暗かったり。アイスランドという自然を、スケール感を持って描くこととは真逆の、女性の表情だけにフォーカスした作品。それは、まるで雲がゆったりと空を流れ動くように、とにかく静かで繊細な表現であった。
きっと作家は孤独を愛する詩人である。
都会の喧騒から離れた森の中の美術館は、彼女の孤独を内包し、さらに静けさを増したようだった。
外に出るとすでに暗がりがあたりを包んでいた。
*1 フォト・コンセプチュアリズム・・・アイディアやコンセプトを作品の中心的な構成要素として置く、コンセプチュアル・アートの文脈を汲む写真作品の動向。1960年代後半~1970年初頭に注目を集めた。
*2『禅とオートバイ修理技術』(ロバート・M・パーシグ著)・・・ロバート・M・パーシグは、1928年米国ミネソタ州生まれの作家。朝鮮戦争従軍やインド留学などを経てライターや教師として勤務したが精神疾患に苦しんだ。1968年、妻と息子、友人と共に4人でオートバイの旅をして各地で得た経験をもとに、哲学的思考を記した本書は、全米でベストセラーに。
*3『You are the Weather』・・・アイスランドの温泉で6週間にわたって女性の表情の微妙な変化を記録し続けた、100枚のポートレート写真で構成される作品集。1997年刊。天気のように移り変わる、一人の女性が見せる唯一無二の100の表情を追うことで、同じようにものの中にこそ絶え間ない変化が潜むことに気づかされる。
*4《あなたは天気 パート2》・・・*3《You are the Weather》の13年後に、同じ女性と再びアイスランドの温泉を訪れて撮影された2作目《You are the Weather, Part2》の邦題。
*5 エミリ・ディキンスン・・・アメリカの詩人。1830〜1886年。生前はわずか7篇の詩を地方紙に発表したのみで、世間にその名を知られることはなかった。2000篇ほどの作品を残し、20世紀に入ってから本格的な評価が行われた。56年間の生涯のほとんどを生家で過ごした影響から、孤独で内的な世界観が作品に投影されていると言われる。
*6《水と言う》・・・「水」についての思考をめぐる散文詩をロニ・ホーン自らが朗読する映像。様々な色や形を映し出す水の魅惑、その不可知性についての作家の思索が自在に、そして連綿と続いていく。2012年5月、ルイジアナ近代美術館でのパフォーマンスを収録したもの。
ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?
Roni Horn: When You See Your Reflection in Water, Do You Recognize the Water in You?
会期:2021年9月18日(土) 〜 2022年3月30日(水) 会期中無休
会場:ポーラ美術館 展示室1, 2 遊歩道