ルノワールは1841年、フランス中西部の町リモージュに生まれ、仕立屋の父とお針子の母に育てられます。13歳で磁器の絵付け職人になりますが、産業化の影響による絵付けの仕事の減少を受け、惹かれていた絵画の道へと向かいました。
20歳でパリのシャルル・グレールのアトリエに入ったルノワールは、モネやシスレーらと出会い、印象派の活動に参加します。印象派は1874年から1886年まで計8回のグループ展を開催していますが、ルノワールはそのうち4回参加しています。1870年代のルノワールは、都市風俗や郊外の行楽地、女性像などを明るい色彩と活き活きとした筆遣いで描き、肖像画家としても成功をおさめました。
1880年代初頭にイタリアを旅したルノワールは、ラファエロの絵画や古代ローマの美術といった古典的な芸術に魅了されます。この経験が、印象派に行き詰まりを感じていた40代の画家にとっての転機となり、新たな手法を求めて試行錯誤を繰り返しました。この時代には厳格な輪郭線と量感表現によって制作を行っていますが、このようなスタイルは「アングル様式」と呼ばれています。
その後、50歳を前にしてリウマチを患うと、温暖な気候を求めて南フランスのカーニュ=シュル=メールに拠点を移します。地中海沿岸の強い光と豊かな自然に刺激されたルノワールは、痛む右手に絵筆を縛りつけて精力的に制作に取り組み、溶け合うような柔らかなタッチと色彩が響き合う女性像や裸婦像を生み出しました。こうした作品は批評家やコレクターの絶賛を浴び、後世の画家にも強い影響を与えました。
ピエール・オーギュスト・ルノワール
1841年、リモージュ ―
1919年、カーニュ=シュル=メール