モネは1840年にパリで生まれ、生後まもなくセーヌ河口の港町、ル・アーヴルに移り住みました。ここで海景画家ウジェーヌ・ブーダンに出会い、当時まだ珍しかった戸外制作の魅力に目覚めたモネは、19歳でパリに出て、画家への道を歩み始めます。
当時の美術界は保守的で、ほぼ唯一の作品発表の場であるサロン(官展)では、アトリエで丁寧に仕上げた写実的な歴史画や神話画などが、模範的な芸術とされていました。こうした現状に不満を抱いたモネは、ルノワール、シスレー、ピサロなど、志を同じくする画家たちとグループをつくります。
そのころのパリは、鉄道が普及し万国博覧会が開催されるなど、文字通りの国際都市でした。こうした環境でパリの市民たちは、郊外でレジャーを楽しみ、近代生活を謳歌したのです。モネたちは陽光と色彩を求めて戸外に赴き、身近な自然や人間の生活を描きました。混色を避け、明るい色を小さな筆致で並置する手法は、筆触分割と呼ばれるようになります。1874年に開いた初めてのグループ展はスキャンダルとなり、モネの出品作≪印象、日の出≫を皮肉った批評家の言葉から“印象派”という呼び名が生まれました。しかし今日、モネを中心とする印象主義は、近代美術史上もっとも革命的な絵画運動として評価されています。
1890年代に、モネは「積みわら」や「ルーアン大聖堂」など、同じ対象を1日の様々な光や天候の中で描き分ける連作を手掛け、画家としての名声を手にします。50歳代にはジヴェルニーに日本風の橋の架かる庭園をつくり、86歳で亡くなるまでその庭を描きました。特に睡蓮の池は重要なテーマとなり、約200点もの作品を残しています。
クロード・モネ
1840年、パリ ―
1926年、ジヴェルニー