コローは富裕なラシャ卸売業の父、有名な婦人帽子店を経営する母を両親にパリで生まれた。家業を継ぐため同業の織物問屋で見習いをしながら、画塾アカデミー・シュイスに通う。1822年、両親から画家になる許しを得て風景画家アシール=エトナ・ミシャロンに弟子入りをした。ミシャロンは1817年ローマ大賞にはじめて創設された風景画の部門「歴史的風景画」の第一回受賞者であった。ミシャロンの急逝により、コローは新古典派の風景画家ジャン=ヴィクトール・ベルタンのアトリエで学んだ後、1825年から3年間イタリアに旅行、1827年のサロン(官展)に《ナルニの眺め》(カナダ国立美術館)など風景画2点を初出品する。さらに1855年パリ万国博覧会出品の6点の詩的風景画により最高賞を得て、風景画家としての地位を確立した。銀灰色を帯びたコローの抒情的風景画は大衆からも人気を博し、またオノレ・ドーミエら貧窮していた友人の画家などに経済的援助を施すなど、画家仲間たちからも「コロー親父」と呼ばれて生涯慕われた。 師ミシャロンから「自然を丹念に研究せよ」という教えを受けたコローは、フォンテーヌブローや父親の別荘のあるヴィル=ダヴレーなどで戸外写生に励み、これらの田園風景は彼の霊感の源となっていく。ミレーらバルビゾンの画家たちとも知り合いになり、しばしば彼らとともに過ごした。バルビゾン派と印象派を結ぶ画家フランソワ・ドービニーがもっとも親しい友であった。牛の番をする少女を岸辺に配した本作品のような田園風景はコローの初期作品からみられるもので、バルビゾン派のテーマに通じるものであるが、彼らの作品ほど写実的ではなく、古典的な構成とやわらかな色彩の詩的情緒の漂う画面となっている。コローは自然を忠実に描くことの楽しさと重要性を認めつつも、最終的にアトリエで記憶と想像力を働かせて風景を再構成する画家であり、本作品もそうした抒情的風景画であるとともに、画家の内面の抒情詩といえよう。