鹿児島に薩摩藩士、黒田清兼の長男として生まれた黒田清輝は、元老院議員などを歴任して子爵となった叔父、清綱の養嫡子となり上京し、清綱邸で少年時代を過ごした。黒田は1884年(明治17)、17歳で法律を学ぶためフランスに留学したが、その後画家になることを決意する。彼は1886年(明治19)にアカデミー・コラロッシのラファエル・コラン教室に入学し、翌年法律大学校を辞すると、1893年(明治26)に帰国するまで画業の研鑽に励んだ。コランは外光描写を採り入れた優美な女性像、裸婦像を得意とする画家であり、黒田の帰国によってそれまでに見ることのなかった、自由で明るさに溢れた作品が日本の洋画界にもたらされた。彼は後半生は美術教育、美術行政の中心人物としても活躍した。 この作品が描かれた同じ年に黒田清輝は、野原に3人の裸婦が憩う《花野》(東京文化財研究所)の画稿に着手している。《花野》は黒田の後期の未完の大作とされている。自然のなかに裸婦を描いた本作品とともに、この頃黒田はかつて師事したコランの作風に再び回帰したようである。黒田は、作品《智・感・情》《湖畔》(いずれも東京文化財研究所)などを出品した1900年のパリ万国博覧会を訪れているが、そこには本作品と酷似した主題、構図のコランの作品、草地に仰向けに横たわる裸婦の上半身を描いた《眠り》、また庭に3人の女性が集う《庭の隅》(1895年、前田育徳会)などが出品されていた。こうしたコランの作品に触発されたのであろうか、本作品は、微妙な色彩を用いた繊細な光あふれる画面をもち、甘美で魅惑的な詩情をたたえている。 《野辺》は、黒田らが自由な発表の場として創設した美術団体、白馬会の第11回展に出品された。また、本作品の素描習作は、耽美的な異国趣味を漂わせた詩篇を掲載したことで知られる、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄らパンの会の詩人たちの文芸雑誌『屋上庭園』の創刊号(明治42年)の表紙となった。