藤島武二は島津藩士、藤島賢方の三男として鹿児島に生まれた。洋画家を志し17歳で上京するが、明治20年代の国粋主義によって洋画が排斥されるなか、日本画家の川端玉章に学ぶ。その後23歳で曽山幸彦の画塾に入門し、念願の洋画研究を開始した。1896年(明治29)、新設された東京美術学校西洋画科の助教授に黒田清輝の推薦を受けて就任し、明治30年代前半、彼の外光主義から強い影響を受ける。明治34年から6年間ほど雑誌『明星』の表紙絵、挿絵を担当。また明治30年代後半には《天平の面影》(1902年、石橋財団石橋美術館)など明治浪漫主義の時代を代表する作品を発表し、青木繁ら画家のみならず文芸思潮に大きな影響を与えた。1905年から官費留学で4年間渡欧し、パリでフェルナン・コルモンに師事した後、ローマに移りフランス人画家カロリュス=デュランに学ぶ。イタリア人画家ジョヴァンニ・ボルディーニからも少なからぬ影響を受け、ローマ時代には代表作《黒扇》(1908-1909年、石橋財団ブリヂストン美術館)などを制作している。帰国後は、1924(大正13)年の第5回帝展に出品した《東洋振り》をはじめ、日本的な感性や文化的風土にもとづいた油彩画を描き続けた。
中国服を着た横顔の女性を描いた《東洋振り》は、藤島の留学後10年にしてあらたな躍進の契機となった作品である。その後、横顔のシリーズは大正15年の《芳A》、《女の横顔》、《B剪眉》と続く。《芳A》、《女の横顔》のモデルは、彦乃を失って失意にあった竹久夢二の制作意欲をかきたてた女性で、「お葉」として知られる佐々木カ子(ネ)ヨといわれている。自然を背景にした横顔の女性像はイタリア・ルネサンスの影響であるが、《東洋振り》、《芳A》に比べると、本作品の、単純化された風景と髪飾り、服装等は藤島の後期の様式につらなるものといえよう。