1939年(昭和14)、梅原は第2回満州国美術展の審査に招かれて満州(現、中国東北部)へ渡り、帰途北京を訪れた。その景観に驚き、制作意欲をかきたてられた彼は、《雲中天壇》(1939年、京都国立近代美術館)などの風景画や旅の途中で出会った人々の姿を精力的に描いた。本作品は、翌年再び北京に滞在した際に描かれたものである。 北京での梅原は、午前は宿泊先の窓から見える風景を描き、午後になると若い女性を部屋に呼び、人物画の制作に没頭したという。彼はとくにこの姑娘と呼ばれる若い中国人女性に魅力を感じていたようで、紫禁城などを描いた風景画とともに姑娘図の連作も北京における制作の柱となっている。 本作品は、そういった姑娘図のひとつである。窓外に北京の風景が広がる部屋の中で大きなソファーにゆったりと腰掛けた若い女性は、髪を黄色いリボンで束ね、あざやかな青い服をまとい、扇子をもっている。意志の強さを感じさせるくっきりとした目鼻立ちが印象的である。ダイナミックな筆致、色面による表現は、この頃までに梅原が獲得した独自の描法であった。また、北京での制作には、油絵具のほかに岩絵具も併用し、その質感と色合いを楽しんだ。 姑娘図には、東洋的な伝統の美に加え、モダンなファッションを取り入れて新しい女性像を探究したものも多い。滞在先に呼ばれたモデルたちは、髪にパーマネントをあて、流行の洋服を身につける。ソファーに腰掛け、ポーズを取る女性たちの緊張したようにこわばる姿が、一期一会の旅先での出会いを垣間見せている。北京の美しい風景と美しい娘たちに魅せられた梅原は、この後何度も北京に滞在し、数多くの作品を制作した。