黒田清輝は50歳を迎える1915年(大正4)の元旦を、鎌倉の別荘で迎えている。彼はこの頃から鎌倉によく滞在し、制作も多くこの地で行われた。海景や雲の連作などの自然観察とともに、田園で働く農夫を黒田は主題に選んでいる。本作品も鎌倉佐助谷の黒田の別荘に滞在して描かれたもので、収穫後の赤小豆の鞘と実を、農婦がふるい分ける姿、また背景には矢倉と呼ばれる、崖に掘られた物置用の穴倉や黐の木が、実景そのままに描かれている。 黒田は、1916年(大正5)の第十回文部省美術展覧会(文展)に対する感想のなかで、技巧に重きをおかず、気ままで即興的な制作態度が見受けられる、当時の画家の風潮を指摘し、また自らも反省して、熱心に根気よく作品を作り上げたいと述べている。 それらの実践が、1914年(大正3)から始まる《其日のはて》(1914年、第八回文展出品作、焼失)、《茶休み》(1916年、第十回文展出品作、焼失)、《栗拾い》(1917年、東京文化財研究所蔵)などの一連の農婦を描いた晩年のシリーズであり、本作品(第十二回文展出品作)は、その集大成であると言えよう。 フランス留学時代からの親友で、画家の久米桂一郎は、「この絵には黒田氏の暖か味のある、穏かな気分が遺憾なく流露してゐる」と指摘し、彼の画家としての特色が理解できると述べた。