佐伯祐三は、大阪府立北野中学校在学中に画家を志し、赤松麟作の画塾に通い石膏デッサンを学ぶ。1917年(大正6)に上京し、川端画学校で藤島武二の指導を受けたあと、東京美術学校に入学した。佐伯がパリ行きの夢を抱いたきっかけは、武者小路実篤邸で「白樺美術館第1回展」に展示されたゴッホの《ひまわり》(戦災で焼失)を見たことであった。1923年(大正12)の東京美術学校卒業後、妻子とともに念願のパリへ赴く。 パリではまず、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールの自由科に通い、セザンヌ風の裸体習作や着衣像を描いていたが、オーヴェール=シュル=オワーズでヴラマンクと出会ってからは、彼の影響を受けた風景画を盛んに描くようになる。その後1924年(大正13)11月に、佐伯はパリ市内モンパルナス駅南のシャトー通り13番地に居を構え、周辺のパリの街並を描きはじめる。 シャトー通りに転居してから、その制作は勢いを増している。制作量が増えると画材にかかる費用もかさむため、佐伯はこの頃から自家製のカンヴァスを用いるようになる。油絵具の油分を吸収しやすい独自のカンヴァスは、絵具の吸着具合が良かったらしく、結果として佐伯の多作をさらに助長することになった。昂揚する情感を絵筆にのせて街景を即座に描き込む。こうして生まれた作品のひとつが本作品である。庶民の哀歓が壁に染みついたような街角の描写に、いい知れぬ深い魅力が感じられる。