青木繁は、1899年(明治32)に上京し、小山正太郎の不同舎に入門した。翌年、東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝や藤島武二らの指導を受けた。在学中に上野の図書館に通って古事記や各国の神話などを盛んに勉強していた青木は、1903年(明治36)年の白馬会第8回展に浪漫主義的な作品である《黄泉比良坂》(1903年、東京藝術大学大学美術館)など神話画稿10数点を出品し、第1回白馬会賞を受賞、画壇へのデビューを果たした。
1904年(明治37)、青木は東京美術学校卒業後すぐに、友人の坂本繁二郎、森田恒友、恋人の福田たねとともに房州布良海岸へ写生旅行に出かけた。夏のひと月余りの滞在で、漁を終え岸にたどり着いたばかりの漁師たちを描いた《海の幸》(石橋財団石橋美術館)や、岩に打ちよせる波の躍動感を見事にとらえた海景シリーズなどを手がけている。この頃が画家としての絶頂期であったが、学生を終えたばかりで経済力がないうえ、親の代りに姉や弟を養わなければならなかったため、生活は困窮を極めた。本作品を含め、水彩で描いた浮世絵風の作品がいくつか知られているが、これらは生活の糧として外国人向けに描かれたものではないかとの見解がなされている。本作品は、金箔の背景に、鎧櫃の前で着物姿の女性が袂を噛み慟哭する場面を描いた錦絵風の作品である。原画となる作品があったかどうかは明らかではない。「出雲朱比古C」というもっともらしい署名は青木が作り出したものであるが、自尊心の高かった青木らしく、この署名によって自己をカムフラージュしたようである。