佐倉藩士の子として生まれた浅井忠は、1876年(明治9)、21歳のときに洋画家となる決意を固め、イギリスで洋画を学んだ国沢新九郎の画塾彰技堂に入門した。同年、工部美術学校に進み、イタリア人画学教師アントニオ・フォンタネージに師事する。1889年(明治22)には洋画団体である明治美術会の創設に加わり、同会主催の展覧会に《収穫》(1890年、東京藝術大学大学美術館)など多くの作品を発表した。1900年(明治33)から2年間フランスに留学した際、パリ万国博覧会を訪れ、アール・ヌーヴォーをはじめとするヨーロッパ芸術に魅せられた浅井は、図案制作に関心を抱く。帰国後は京都高等工芸学校、関西美術院などで後進を育成した。 本作品は、武士が鷹狩りをする場面を描いたものである。猟犬を連れた犬引きが、背丈よりも高い草むらに潜む野禽をおびき出し、その獲物を鷹匠の放った鷹がいまにも捕えようとしている。本作品は、農村や漁村の風景を主題とした作品にみられる浅井独特の情感の表出に乏しく、歴史画風に描かれている。また、武士の装束や馬などが克明に描写され、彼が得意とした脂っぽい色調ではなく明るい色調で全体がまとめられている。1905年(明治38)に彼は東宮御所東二の間の綴織壁飾の原画として《武士の山狩》を描いているが、本作品はそれを連想させる。武士の姿を歴史上のものとしてではなく、むしろ現実のもののように描いたところに、武家出身の浅井らしさがある。