1929年(昭和4)9月末に南満州鉄道株式会社の招きによって満州(現在の中国東北部)に赴いた劉生は、大連の人気リゾート地である星ヶ浦の大和ホテルに滞在して制作を行った。当初の予定では、最終目的地はヨーロッパであり、大連での制作・即売で得た資金を旅行費用にまわす手はずとなっていた。満鉄社員クラブでの個展や講演がおもな仕事であったため、劉生は到着後すぐに制作にとりかかる。1929年11月の年記がある本作品は、同地に赴任していた満鉄総裁仙石貢の邸宅の庭を描いたもので、初期の銀座時代を思わせる、ポスト印象派風の明るい色彩の風景画である。 劉生は、1920年(大正9)から日記を欠かさずつけたため、彼の制作記録は比較的容易に跡づけることができるが、この年の記録はない。しかしながら、11月に妻蓁に宛てた手紙が残っており、9日の手紙に「絵は、二十号に風景が二枚、八号風景一枚、八号静物一枚、板寸風景二枚ともう六枚もかいた。これ等は大ていかたづくだらう。まだもう十枚かいてかたづけて帰る」とある。本作品は20号であり、ここに挙げられたものか、あるいはこの手紙の最後にある「まだ戸外で写生出来る、二十号もう二枚程写生するつもりだ」の2枚のうちの1枚なのかもしれない。そして22日の手紙には、これらの作品を24日から3日間行われる展覧会に出品し、売るつもりであることが記されている。記録によれば、満鉄社員クラブで行われた個展には実際に13点を出品している。 制作に関することのほかに、いずれの手紙でも劉生は、中国の暮らしになじめず早く家に帰りたいと不満を書き送っているが、そういった不調もあってか11月27日にはついに帰国の途につく。そして3日後に門司港に到着すると、随行していた田島一郎の郷里である山口県徳山町(現在の徳山市)に一時滞在することとなる。しかし、ここが彼の最期の地となってしまい、すでに大連で体調を崩していた劉生は、徳山で腎臓炎に胃潰瘍を併発し、12月20日に田島別邸で息をひきとった。帰国してから亡くなるまでのわずかの間は、徳山で行きつけの料亭などのために揮毫した日本画しかなく、本作品をはじめとする満州での制作が最後の油彩制作となってしまった。