水戸市に生まれた中村彝は幼くして父母を失い、11歳で祖母・姉とともに上京した。1906年(明治39)には黒田清輝の白馬会洋画研究所に入所し、洋画を学びはじめる。その後、文展・帝展への出品を通して画壇での地位を確立するが、同じ頃、パトロンであった新宿・中村屋の相馬黒光夫人と娘の俊子をめぐって複雑な心理状態に陥り、苦悩の日々を送った。 西欧の文化を積極的に取り入れる進歩的な相馬家の影響を受け、中村もヨーロッパの画家に憧れた。とりわけセザンヌとルノワールに傾倒し、風景画や人物画に彼らの様式の影響をみてとることができる。 そういった傾向から従来この《泉のほとり》はルノワールの模写といわれてきたが、近年の研究によってそれが模写でなく、中村彝の創作であることが明らかになってきた。それは「素戔鳴命に題をとつて勝手に想像で描いたもの」という中村の言葉からもうかがえる。日本の古代神話に取材しているが、人物は、西洋の神話に登場するニンフや牧神のように描かれている。これは中村の西洋美術への憧憬の表われであろう。彼は、1920年(大正9)頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようだ。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この《泉のほとり》を制作したという。黄色と淡紅色を基調とした肌の色合い、溶け込むようなやわらかな筆触などに、ルノワールの影響がみられる。この作品を描いた後、彝は持病の胸部疾患を悪化させ床に伏し、1924年(大正13)年に37歳の若さで世を去った。