1900年のパリ万国博覧会に際し、アルマ広場のパヴィリオンにおいてロダンの大回顧展が開催され、《カレーの市民》を含む彫刻168点や、デッサンと写真約50点が出品された。この展覧会でロダンは批評家たちの注目を集め、世界中から注文が殺到することとなった。
《カレーの市民》とよばれる群像彫刻は、イギリスとフランスが対立した百年戦争における、ある英雄たちの物語が主題となっているが、この物語についてロダンは中世後期の歴史学者、ジャン・フロワサールの『年代記』をよりどころとした。1347年、フランス北部のカレー市を包囲した英国王エドワード3世は、この市の6人の名士が人質となり、城塞の鍵を渡すならば包囲を解こうと提案した。この時、ユスタッシュ・ド・サン=ピエールほか6人が死を覚悟してエドワード3世の陣営に赴いたが、命を奪われることなく解放された。フランス人の勇敢さとイギリス人の寛大さを象徴するこの伝説的な話をカレー市は記念碑の主題に選び、1884年にロダンに制作を依頼した。
1895年、カレー市のリシュリュー広場に設置された《カレーの市民》は、1884年の第一試作と1885年の第二試作を経て実現されたが、本作品は後者の第二試作にあたる。第一試作についてロダンは、「自らすすんで犠牲になろうとするこれら6人の登場人物の全体が、集合的な感情の力を持っているのです」と述べ、凱旋門のような高い台座の上に6人の英雄を配する構成としたが、第二試作で彼は、犠牲となる人々の英雄性よりはむしろ、運命に対する諦念や絶望、一瞬の躊躇を強く表現した。さらに、6体それぞれが台座ごと独立し、それらを組み合わせてひとつの作品とする独創的な構成を試みている。ただしポーラ美術館収蔵の6体のうち、ジャン・ド・フィエンヌの像だけは組み合わせるように作られたものではなく、後で制作されたと思われるヴァリアント(異作)であるため、台座の形が異なっている。記念碑となるような群像の構成は、伝統的なピラミッド型でなければならないとする当時の慣習に反し、台座を低くし群像の高さをそろえたことなどが批判の的となったため、結局この第二試作は完成作として実現することはなかったが、ロダンが強く意図した、死を覚悟した人間の重々しい歩みの姿は、そのまま完成作へと引き継がれた。完成作の石膏像は、1889年にパリのジョルジュ・プティ画廊で開催されたロダンとモネの二人展において、はじめて披露されている。
第二試作は、ロダン美術館の許可のもと12作品が鋳造された。当館収蔵の作品はシュス鋳造所で1977年に鋳造された12番目の作品であることが各作品の台座に刻まれている。