湖水と女

  • 作家名 村山槐多
  • 制作年 1917年(大正6)
  • 技法・素材 油彩/カンヴァス
  • サイズ 60.8 x 45.9 cm
22歳で世を去った夭折の画家村山槐多は、詩作や絵画制作に才能を発揮し、その奔放な生き方からさまざまな逸話を残している。彼はまさに、短い人生を駆け抜けた天才芸術家であった。 横浜に生まれた槐多は、父親の転勤でまもなく京都に移った。中学2年のとき、従兄弟の画家、山本鼎に感化され、本格的に芸術家を目指すようになる。1914年(大正3)、中学を卒業すると画家をめざして上京し、山本から紹介された画家、小杉未醒のもとに下宿しながら日本美術院洋画部の研究所に通いはじめた。 1916年(大正5)、根津の下宿に転居すると、この頃からモデルの「お玉さん」そして下宿先の「おばさん」への恋慕に悩むようになる。この《湖水と女》のモデルについては、当初この「おばさん」だといわれていたが、近年になってこの絵のモデルが槐多の後援者、笹秀松の妻の操であるという説が有力となってきた。槐多の遠縁にあたる笹操はすらりとした長身の美女で、この《湖水と女》が描かれたとき31歳頃であったという。夫の秀松は、大柄で磊落な性質で知られており、《のらくら者》(1916年)のモデルといわれている。 山々に囲まれた湖を背景に、一人の女性が座っている。流行の束髪に色白の端正な顔立ちをしたこの女性は、鶯色の着物に紺色の羽織を合わせている。涼しげな目もと、固くむすんだ口もとが意志の強さをうかがわせ、近寄りがたい崇高さを感じさせる。背景の湖と民家、山々の風景は、郷愁をさそいつつも寂寥感をただよわせ、描法と構図はダ・ヴィンチの《モナ・リザ》(ルーヴル美術館)を彷彿とさせる。丁寧に描きこまれたこの作品は、第3回日本美術院試作展に出品され、奨励賞を受けている。しかし、その後槐多はしだいに頽廃的な生活に耽るようになり、1919年(大正8)肺炎により急逝した。