フランス北部の織物産業で栄えた町、ル・カトー=カンブレジに生まれたマティスは、法律を学んだ後、画家の道を選ぶ。1892年にパリの国立美術学校でギュスターヴ・モローのもとで学ぶ。1905年にサロン・デザンデパンダンに点描画法による《豪奢、静寂、逸楽》(1904年、オルセー美術館)を発表、さらに激しい色彩のコントラストで肖像を描いて物議をかもし、フォーヴィスムの中心的存在となった。マティスの絵画は装飾性が色濃くなり、人体表現は単純化され、その探究はバーンズ財団のために制作された1930年代初頭の《ダンス》に結実している。 マティスが本作品を制作したのは、1943年に戦火を逃れて南仏ニースのレジナ・ホテルに滞在していたときであった。1941年に腸の疾患で大手術を受けてから、マティスは技法的に負担の少ない切り紙絵の制作をはじめ、この頃「ジャズ」の連作に着手している。「私はあるときは色彩だけである種の均衡と表現的なリズムを得ようとし、またあるときはただアラベスクだけの力を確かめようと努めてきました」。マティスはこの時期こう告白している。 目の醒めるような朱色の部屋は、黄色が下塗りされているために光を帯びてみえる。葉の形の装飾文様とアラベスクが壁紙と絨毯にのびやかに描かれ、女性のドレスにはアルファベットの「K」の文字に似たモティーフが躍る。画面中央には生命力みなぎる紫陽花が君臨し、そのかたわらでリュートを爪弾く女性は、室内に遍在する音楽的なリズムに主旋律を与える伴奏者として、生の喜びを謳い上げているようである。 戦後、マティスがフランスの伝統的なゴブラン織のタペストリー復興の仕事を受けたとき、彼は装飾文様が一面に描き込まれたこの作品を選び、下絵として提供した。絵画の枠組みを越え、より大きな空間の装飾へと情熱を傾けた晩年のマティスの意志を、本作品は明らかにしている。