鳥取県東伯郡に生まれた前田は、高校までを郷里で過ごし、その後東京美術学校西洋画科に学んだ。1922年(大正11)、倉敷で開かれた大原コレクション展を見た前田は強い感銘を受け、その年のうちに渡仏する。パリではとくにクールベのレアリスム(写実主義)や同時代のフォーヴィスムに傾倒し、労働者や工場などをモティーフにした作品を多数制作するとともに、同郷の福本和夫に社会主義の思想的影響を受けた。
1925年(大正14)に帰国すると、帝展に出品し特選を受賞するなど中央画壇での活動を活発に行なう一方で、里見勝蔵、佐伯祐三などと「1930年協会」を結成した。前田らがつぎつぎに発表する、フォーヴィスムの雰囲気を伝える作品は、当時の若い画家たちを魅了した。
本作品は、前田が1930年協会の活動に没頭していた頃のものであり、この頃数多く発表した裸婦の大作のひとつである。彼は写実技法で追求すべき要訣を「質感を得ること」、「量感を得ること」、「実在感を得ること」の3つにまとめているが、この裸婦像にもそれら三要素が巧みに表現されている。
褐色を基調に深緑や濃紺が混ざった翳りのある室内を背景として、寝椅子には裸婦が横たわっている。こちらに背中を向ける女性の横臥像は、アングルの《グランド・オダリスク》(1814年、ルーヴル美術館)を思い起こさせる。寝椅子と裸婦の背中の曲線は同じカーヴを描いており、画面に一定方向の運動性をもたらしている。そして、この裸婦像では、見る者はなによりも裸婦のどっしりとした量感に圧倒される。体のねじれや立体感、とくに暗闇に浮かび上がるかのような肌の明るさは、質感と存在感を呼びおこす。クールベを独学で理解した前田の写実への執着がうかがえる作品である。