岡山県に生まれた満谷国四郎は、画家を志して17歳で上京し、小山正太郎に入門する。師の小山は明治期の洋画教育の第一人者とされ、代表作《濁醪療渇黄葉村店》など歴史的主題を扱った厳格な写実性を得意としていた。その教えを受けて、この頃の満谷の作品には明暗のコントラストの強い写実的な表現がみられる。しかしその後、1911年(明治44)、大原コレクションで知られる大原孫三郎の援助により渡欧した際にさまざまな画家の影響を受け画風を変える。満谷は、カーニュにルノワールを直接訪ねたことが知られているほか、セザンヌの作品から造形的な特徴を採り入れたことが指摘されており、また、1910年以降の作品には、ゴーガンや象徴派の画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌなどの影響もみられる。帰国してからも文芸雑誌『白樺』の図版などで、同時代の西洋美術の潮流を知ることができたため、満谷の作品にも、さまざまな画家の実験的な試みが反映されている。 本作品には「1921」の年記がみられ、それを証明するかのように、画面には1920年頃の作品に多く見られる杏の木が描かれている。そしてその木の下には腰布を巻いた裸婦がひざまずく。樹下美人図は《鳥毛立女屏風》(正倉院)に代表される日本の伝統的なテーマであり、近代になってもよく描かれた。テーマは伝統的であるが、この作品の描法は新しい試みに満ちており、それは形のとらえ方に表われている。やわらかな丸みを帯びた裸婦の身体の肌色と布の白、地面の褐色や緑のコントラストなど、色と色を並べることによって物の境界が明らかにされている。このような単純化や平面化はときに「装飾的」と呼ばれる、新しい表現であった。