裸婦結髪

  • 作家名 梅原龍三郎
  • 制作年 1928年(昭和3)
  • 技法・素材 油彩/カンヴァス
  • サイズ 73.4 x 60.7 cm
梅原龍三郎と安井曾太郎は同年生まれであり、またおなじ京都の出身であることから、ともに学び競い合う間柄となる。15歳頃から聖護院洋画研究所(のちの関西美術院)で本格的に洋画をはじめた梅原は、1908年(明治41)、安井と前後して渡仏し、パリではじめてルノワールの作品を目にする。感激した彼は、紹介状も持たずにルノワールを訪ね、熱意を買われて師事を許された。1913年(大正2)に帰国すると、滞欧作を白樺社主催の個展で発表し、ルノワールから学んだやわらかい筆致や淡く優しい色合いが好評を博し、一躍画壇の寵児となる。帰国してからもルノワールへ寄せた敬愛は深く、1919年(大正8)12月、新聞でルノワールの死を知ると、すぐに弔問のため渡欧したほどだった。 この二度目のパリ滞在でギメ美術館を訪れ、東洋美術を再発見したことは彼にとって大きな転機であった。この頃から梅原は肉筆浮世絵や大津絵の収集をはじめ、描線や平面的、装飾的な構図を油絵に取り入れていった。また、東洋的な要素を油絵に生かし、いわゆる「日本的油絵」を創出することにつとめていた岸田劉生との交流も、その後の画風を変える要因となった。本作品は、この頃多く描かれた裸婦図のひとつである。赤い絨毯に緑色の敷布、さらに同じ緑色のカーテンをあしらった室内で二人の裸婦が身支度をしている。緑、赤、黄、黒のほぼ4色に限られた色の使用、なかでも女性の長い髪と手鏡の漆黒が印象的である。この「黒」の活用については梅原自身がつぎのように述懐している。「黒という色の美しさを考えたことも印象派の影響を受けていた頃には考えられなかったことだ」。二度のヨーロッパ体験を経た後の、日本の伝統芸術への回帰は、本作品にも明確に示されている。