岡鹿之助は明治、大正時代に活躍した劇評家の岡鬼太郎の長男として、東京に生まれた。父の友人、岡田三郎助に素描を学んだ後、東京美術学校西洋画科に入学した。1924年(大正13)12月に同校を卒業すると、岡はフランスに渡った。パリでは、藤田嗣治の勧めで翌年のサロン・ドートンヌに出品し、風景画一点が入選するが、会場に展示された自作の油絵技法の弱さを自覚して、顔料やカンヴァスについて研究や工夫を重ね、独自の技法を探究した。そして1927年のサロン・ドートンヌに出品した本作品や《滞船》において、独特の点描と穏やかで構成美あふれる絵画世界を確立していく。その後は第二次大戦勃発により、1939年(昭和14)12月に帰国するまで15年間をフランスで過ごした。帰国後は春陽会に会員として迎えられ、終生出品を続けながら、《遊蝶花》(1951年、下関市立美術館)から、《雪の発電所》(1956年、石橋財団ブリヂストン美術館)、絶筆となった《段丘》(1978年)まで、精緻な筆触によって静かな詩情に満ちた作品を描き続けた。『フランスの画家たち』(1949年)、『油絵のマティエール』(1953年)など著述も多く残している。 1927年頃、岡鹿之助は描法がスーラに似ているといわれ、リュクサンブール美術館でスーラの作品《サーカス》(オルセー美術館)をはじめて見ている。岡は「(スーラから)画面の構成と色のリズムを教わった」と述べているように、スーラの科学的な色彩の処理よりも、造形的秩序をもった画面構成に啓発されている。岡の点描風のタッチはスーラら新印象主義の点描とは異なり、濃い色をかすらせて薄く見せ、少しすり込んでいくような筆づかいを用いている。本作品に描かれている風景はパリのサン=ドニ運河であるが、現実の風景にこだわらず単純化されており、画家の記憶にある風景となっている。独特の褐色を基調とした色調、均整のとれた構図によって、ノスタルジーを漂わせたロマンティックな画面となっている。