東京日本橋の料亭「百尺」の四男として生まれた安田靫彦(本名:新三郎)は、幼いころから絵を好み、1898年(明治31)14歳で歴史画家、小堀鞆音の門に入った。才能あふれた靫彦は早くから頭角を現わし、岡倉天心にも注目され、1902年(明治35)から2年間、天心のはからいで奈良へ内地留学することとなった。こうして靫彦は有職故実に通じた歴史画家となったが、同時に彼はすぐれた静物画家でもあった。病弱ゆえに風景画をあまり描かなかった靫彦は、日々静かに画室で過ごし、庭の草花を摘んで花器に活け、自身が収集した中国の陶磁器や俑などを並べ、描いていたという。 本作品では、遼の黄釉の壺に挿した鉄線の花が中心となり、その脇に置かれたペルシャ風の皿や、背後に掛けられた墨絵の画幅などが、一体となって室内空間を構成している。黄色の壺と紫の鉄線の色彩のコントラスト、そしてそれらを引き締める皿の白地に黒の幾何学的な文様など、それぞれのモティーフの色と形が織りなす緩急のリズムが、画面に緊張感をもたらしている。室内の一角をとらえた静物画に凛とした美しさを感じるのは、この配置の妙と、靫彦が得意とした鉄線描による細くきりりと引き締まった描写によるものであろう。歴史画家としての復古趣味とともに、モダニズムの胎動を敏感に感じとっていた彼は、とくに静物画においてその革新性を表わしていた。