中国から伝わった囲碁は、日本でも古くから文人墨客や貴人の間で楽しまれており、絵画においては「琴棋書画図」として数多く描かれてきた。「琴棋書画」とは7-8世紀、中国の唐代初頃に文人の間で風雅なたしなみとして重要視された琴・棋(碁)・書・画の四芸を指し、日本において琴は筝、琵琶、三味線に置きかえられることもあった。「琴棋書画」を楽しむ様子は、日本では室町時代より屏風絵や襖絵などの画題として好まれ、さらに江戸時代の浮世絵にも、中国の文人に見立てた女性や子ども、時には遊女が碁を打つ姿などが描かれた。実際に太夫と呼ばれた位の高い遊女は、身分の高い客を相手にするため琴棋書画をたしなむ者も多かったという。その後明治に入っても、教養人の高尚な遊戯として囲碁の愛好は続いた。
囲碁の普及と振興をめざして1924年(大正13)に創立された日本棋院は、同年に機関誌『棋道』を創刊した。岸田劉生が表紙を担当するようになった1927年(昭和2)には、棋士が昇段するための棋戦「大手合」が始まり、劉生は秋期大手合の表紙原画を提供している。大手合については毎週の週報が連続発行となるため、ひとつの原画をもとに印刷時に色を変えたヴァリエーションが表紙を飾った。
表紙の画題には劉生ならではの諧謔が散りばめられており、当館収蔵の《瓜核烏鷺》では碁石の黒と白が、西瓜の種の黒と瓜の種の白にたとえられているほか、多くの原画ではユーモラスな表情の中国の文人が対局する姿が描かれている。また、《春日対奕》は、先述した浮世絵の琴棋書画図を意識したものであろう。
これら『棋道』表紙原画の制作時期は、京都在住時から歿年までの3年間、劉生が急速に東洋回帰の傾向を強め、南画風の水彩作品を数多く描いた期間と一致しており、彼の画業の上でもたいへん重要な一時期となっている。1929年(昭和4)12月の突然の死により、劉生の原画は1930年(昭和5)の新年号をもって終わるが、2月号からは日本画家小室翠雲が引き継ぎ、同年の後半には劉生の盟友であった河野通勢も原画を提供している。『棋道』はその後も高段者向け雑誌として存続し、『囲碁クラブ』と合併して、現在も『月刊碁ワールド』として発行されている。