1888年2月、ファン・ゴッホは南仏プロヴァンスのローヌ河畔のアルルに到着した。アルルはローマ時代からの歴史ある町で、市街には遺跡が多く残されている。ゴッホは、明るい陽光に満ちた南仏を、日本のあざやかな浮世絵の世界に重ね合わせ、憧れの日本のような場所と考えていた。彼は、ラマルティーヌ広場に面した「黄色い家」で、パリからやって来たゴーガンと約2ヵ月間生活をともにするが、耳切り事件によって二人の共同生活は幕を閉じる。アルルに滞在した約15ヵ月間で、ゴッホは約200点の油彩画を制作した。「ここの自然は並はずれて美しい。いたるところ完璧だ。空の穹窿と見事なブルー、太陽の輝きは硫黄が燃える青白い炎の色だ」。本作品は、アルル到着後まもなく制作された。ヴィゲラ運河のグレーズ橋はアルルの南に位置していた。ゴッホは橋と土手の黄色、空と運河の水面の青色に加え、橋上の人物や奥に広がる低木材、ボート、洗濯女たち、水面の煌きなどにアクセントとして赤を用いている。(『モネと画家たちの旅』図録、2007)